2026年9月23日 · スタジオより
デザインの机から暗室へ:日本の写真 1959–1982

1959年から1980年代のはじめにかけて、日本はほかのどの国にもできなかったことを成し遂げました。世界中で使われるカメラを作り、同時に、写真のあり方そのものを変える写真家たちを生み出したのです。そのうちの少なくない人々は、カメラの後ろから出発したわけではありません。製図台の前から、広告代理店やデザイン事務所から出発しました。三橋一樹も、そのひとりです。
- 194312月15日、東京に生まれる
- ニコンF発売。日本デザインセンター設立1959ニコンF発売。日本デザインセンター設立
- 1965日本デザインセンターに入社
- 旭光学がペンタックスギャラリー(六本木)を開設1967旭光学がペンタックスギャラリー(六本木)を開設
- 銀座ニコンサロン開設。『プロヴォーク』創刊1968銀座ニコンサロン開設。『プロヴォーク』創刊
- アサヒペンタックス6×7発売1969アサヒペンタックス6×7発売
- 写真評論社が森山大道、東松照明を刊行1972写真評論社が森山大道、東松照明を刊行株式会社ピープル設立。写真家に
- 1973『Star Man』(写真評論社)
- 1980写真展「Shoot Me」ペンタックスギャラリー
- 1982『ロング・ロング・ロング・ビーチ』刊行・写真展
- フジクローム・ベルビア発売1990フジクローム・ベルビア発売バードハウス・プロジェクト
- 1991写真展「Water Portrait」ギャラリーP3
- フィルムスキャナー、イマコン Flextight 8482003フィルムスキャナー、イマコン Flextight 848ウブドに3か月。トロピカル・ガーデン始まる
- 2026初めてのオンライン・エディション
1959年:カメラと、デザインセンター
1959年、日本光学はニコンFを発売しました。世界中の報道写真家の道具となった一眼レフです。ライカを作るライツが自社の一眼レフを出したのは1964年のことでした。十年のうちに、ニコン、キヤノン、ペンタックスの旭光学、オリンパス、ミノルタ、マミヤといった日本の会社が、世界の本格的なカメラの大半を作るようになります。
同じ年、亀倉雄策、原弘、田中一光らが、アサヒビールやトヨタなどの支援を受けて東京に日本デザインセンターを設立しました。日本の企業デザインの原動力となった場所です。三橋は1965年、武蔵野美術学校の商業デザイン科を卒業して、ここに入社しました。
学校としての広告の現場
1960年代、若い日本の写真家が機材や暗室、フィルム、そして給料を手にできたのは広告の世界でした。荒木経惟は1963年に電通に入社し、1972年までカメラマンとして働きながら、会社の設備で自分の作品を作りました。篠山紀信は学生のうちからライトパブリシティの写真部で働き、1968年に独立しています。
三橋の道は、同じ世界をデザインの側から通っていました。1968年からはグレー大広でルフトハンザドイツ航空の、1970年からはJMSでカネボウ化粧品のアートディレクターを務め、日宣美展特選、朝日・毎日・日経の各広告賞、電通賞、ADC銅賞を受けています。1972年に自らの会社、株式会社ピープルを設立して写真家としての活動を始め、1980年にデザインの仕事を閉じて写真に専念しました。
アートディレクターがカメラにもたらすものは、その後の作品のすべてに見て取れます。ひとつの被写体を、何もない地の上に注意深く置くこと。必要のないものは、画面に何ひとつ入れないこと。
1968年:プロヴォーク、もうひとつの方向
デザインから来た人ばかりではありません。デザインに抗って来た人たちもいました。1968年11月、評論家の多木浩二、写真家の中平卓馬と高梨豊、詩人の岡田隆彦が『プロヴォーク』を創刊し、第2号から森山大道が加わります。粒子が荒れ、ぶれ、ぼけた写真、いわゆる「アレ・ブレ・ボケ」は、広告が生み出す整った商業的イメージへの、意図的な拒絶でした。『プロヴォーク』はわずか3号で終わりましたが、その影響は五十年続いています。
1972年、東京の写真評論社は、森山大道の『写真よさようなら』と東松照明の『I Am a King』という、時代を画する二冊を刊行しました。その翌年、同じ出版社から三橋の最初の写真集『Star Man』が出ています。

カメラメーカーのギャラリー
日本の写真には、海外から来た人をいまも驚かせる特徴があります。最も重要な展示の場の多くを、カメラやフィルムの会社が開いてきたことです。旭光学は1967年に六本木にペンタックスギャラリーを、日本光学は1968年1月に銀座にニコンサロンを開設しました。それは自社製品のショールームではありませんでした。たとえばニコンサロンは、写真家から費用を取らず、公募の中から展示を選び、どのメーカーのカメラで撮った作品にも開かれています。
三橋はそこで二度、個展を開いています。1980年にペンタックスギャラリーで「Shoot Me」、1982年には同名の写真集が出た年に「Long Long Long Beach」。のちの個展「Water Portrait」は、1991年に東京のギャラリーP3で、1996年に福岡のギャラリー・アルティームで開かれました。
完成形としての写真集
ヨーロッパやアメリカでは、写真の完成形はたいてい展示用のプリントでした。日本では、それがしばしば本でした。写真家は自ら写真を並べ、デザインし、写真集として出版し、本こそが作品でした。2004年からのマーティン・パーとジェリー・バジャーによる『The Photobook: A History』や、2017年に金子隆一とマンフレッド・ハイティングがまとめた『The Japanese Photobook, 1912–1990』で、日本の写真集が大きな位置を占めているのはそのためです。
デザイナー出身の写真家にとって、本は自然な場所でした。三橋は三冊を出しています。『Star Man』(1973年)、『ロング・ロング・ロング・ビーチ』(1982年)、『Elvis My Happiness』(1994年)。

その道が、いまも教えてくれること
いま日本で写真を撮る人にとって、写真家になったデザイナーたちは、三つの素朴な教えを残しています。
- 構図は持ち運べる技術である。 レイアウトの規律、つまり序列と余白、一頁にひとつの考えは、そのまま画面の規律です。
- 本を作ること。 印刷され、順序を与えられた作品群は、どんなタイムラインよりも長く残ります。日本の写真は、その形で記憶されてきました。
- 開かれた壁を使うこと。 ニコンサロンのようなカメラメーカーのギャラリーは、いまも公募から展示を選んでいます。
三橋の最後の長いシリーズ「トロピカル・ガーデン」は、2003年にバリ島ウブドで始まりました。それはいまもデザイナーの写真です。一本の植物、ひとつの器、淡い壁、そして光。
出典
- 日本デザインセンター 沿革
- ニコンサロン 概要、リコーイメージング ペンタックスの歴史
- MoMA Provoke, 1968–1970
- Steidl The Japanese Photobook, 1912–1990
- 作家の略歴(『ロング・ロング・ロング・ビーチ』1982年、および作家自身の記録)、作家について
